「おれに触れたら死ぬんだよ」


きっぱりといわれた。しかも言った当人がきょとんとしたまるい目をしているから此れではまるでさっきのセリフはこちらが言ったようなものではないか。断じて違うのに。男は伸ばした手をひっこめて殊更ゆっくりと微笑み、僅かに首をかしげて黒絹のような髪をさらりと流した。ご婦人方に大変人気な所作でうっとり微笑まれるのだ、まるで星屑がキラキラと舞うようだとか白磁の肌に細く散る闇色と唇の血色のよさがあいまってひどく官能的だとか…、愚かな。だがこれに少年はうげっと盛大に顔をしかめさせた。眉間から顎くらいまでにべたりと胡散臭いヤツ!とまで判り易く貼ってあり、妬む男共同様のあの、気持ち悪い奴だとか女に媚びた仕草しやがって等々の暗い渦もぐるぐるとあった。だからなんだ。
男はふふっと笑って意味ありげに顎を撫でると優雅に少年へとするりと手を差し伸べた、まるで騎士のような清らかな仕草。
「どうして死ぬのですか?そしたら君はどうやって日々生きていくというのでしょうね」
「え。普通?」
「普通?でも触れたら死ぬのでしょう?」
「うん。俺以外はね。俺は生きるもん。だから別に…」
うーんと首を傾げ始めた少年に男はストップと右手を挙げた。
「訂正。君は他人に触れられないように生きられるのですか?」
「知らないよ。でも触れてこようとする奴はわかるから逃げてる」
「今のように?」
「そ」
「でもいつも解るわけじゃあないでしょう?」
「わかる。いつも解るからもうマニュアルだって出来てるよ!」
「ほう…」
マニュアルねえ…、男は目を細めて苦笑しながら白い手を差し出す。あるなら見せてご覧なさいと催促し、それに少年は後退さった。…いやそうな顔だ。なんともいやそうな顔だ。ず、ずず、ずずずと今にも逃げ出そうとする小動物のように僅かずつ下がっていく。それに対して男はずいっと大きく一歩前に踏み出す。
「いいじゃんか!別に…」
「興味がわきましたから」
「わかれても…、困る」
「ないなら無いと言えばいいじゃないですか」
「………。………、……いや、あるよ」
視線を右往左往させて、ついには拗ねたように俯いてボソリと答えられた。きっと脳裏に「ないといえば解放されるのかな?」という思考でもちらついたのだろう。だが根は真面目なのか正直なのか、それとも負けず嫌いか。少年は不承不承に本当のことを話すことにしたのだろう。
「さっきの言葉が全部。俺に触れたら死ぬって。そういえば頭のおかしな奴だと思うし…まあ、効かないこともあるから、そしたらもう速攻逃げる!これしかない!」
「じゃあ、今回の場合は?」
「触れたら死ぬってもう一回いう!」
「でもそれでも触れようとしたら?」
「逃げる!」
「追いつかれたら?」
「……追うのあんた?」
「追いかけたいですね」
追い詰めますよというように言った。そう間違いなく聞こえた少年はまた渋面を幼い顔いっぱいに浮かべて気味悪いなあという感情がありありと見て取れる目で男を見上げた。男は相変わらずニコニコと上品な笑みで少年を見下ろし、さあ、もういいですかと、ついっと口の端を持ち上げて問うた。
「不機嫌そう…」
ぽつりと漏れた。思わず。
直感だ。
「ええ。でもマシな方ですよ」
男は肯定する笑顔で。能面のような笑顔だ。
胡乱な眼差しでじろじろと少年は男の頭のてっぺんから爪先を眺めた。なるほど、綺麗な男だ。しかし綺麗でも気味の悪い男で不吉で不潔な男だろう。少年は逃げようと思った。きっとこいつは触れるだろう。
触れたら、これは……、そうだそうだ自分で殺すしかない運命のはじまりだ。
(…あ、)
鐘が鳴る。
教会の鐘が遠くで鳴った。金色のあれ。蒼い空をすいっと鳩が渡った。
結婚式があったのだ。



「死にませんよ」



少年には或る男の妄執がとり憑いていた。占い師はいった。お前に触れても死なない男はお前が殺さなければならないよと。その男はお前を独りにしたい。その男はお前を殺したい。その男はお前を探していた。その男はお前を恨み恨み激しく愛し、お前を壊したいから気をおつけと。
(どう…、気をつけるんだろう…?)

「俺に触れたら死ぬよ?」

また少年はきょとんとまるまった凪いだ水面のような目で男を見上げた。それに男は途端噴き出すようにけらけらと笑う。

「じゃあ君から触れなさい。君に触れる者は全部苦しんで死なせた。だから君から触れなさい。今生の君の孤独は僕が作ったけれど、でも君は僕のせいで孤独なんかじゃない。君は君の魂はいつだって孤独で僕ぐらいしか傍に寄れないんですから」

ねえさみしがりやさん?…男の笑いはどんどん大きくなっていく。馬鹿でかい哄笑になった。確信に満ち足りた傲慢な笑みで正直いって少年は胸糞が悪くなった。ギリッと眼差しに憎憎しさをたっぷり塗りつけて男を突き刺すように睨んだ。そうかよ!!そう開き直った罵声を浴びせたくなる、でも。

「………孤独が、孤独で埋まるもんか」

少年はぱっと逃げ出した。一目散に男の下から素早く走り出した。自分でも意外なことにあっという間に男を背後から振り落としてしまった。
(なんだ…、)
ハッ、ハッ、と肩で息をし、額の汗をぐいっと袖で拭いながら、追ってこない男にニヤリと笑う。きっとあの男はまだ呆然とあそこに突っ立っているだろう。はは!動悸は治まらないし手足はガクガクいうし気持ち悪いがなんとも爽快だ!少年は壁にドンと拳を叩きつけてげらげらと笑い出した。俺はお前になんか触れないよ!お前も触れれない!

「そうだよ……、俺たちはいつだって触れ合えない。お前はもうじき死ぬ。出会っただけで重畳だろうさ。いつだって擦違うんだ」

はは、ははは…、途切れ途切れに少年の笑い声が響く。俯いた顔。こめかみに浮いた汗が顎をつたって落ちていく。ぽたり、ぽたり。透明な水色もそっと、すべりおちた。

男は軍服を着ていた。きっと戦争で死ぬ。世界大戦じゃないのが救いだ。








【 軍人とホームレス少年 】