実のところ、僕は幸福を知っていた。


それをいうと一様に変な顔をされるので黙ってはいるが、本当に知っているのだから仕方がない。薄幸というイメージがぴったり張り付いて離れない顔であるが、…だからといって一日ずっと一年中ずっと不幸なわけではないし、ちゃんとちいさな幸せをちょこんと日々感じているし、それが嬉しいなあと思う心も健在だ。

「お前はだから変態といわれるんだよ…」

何かの折に、大切な彼にだけそっと幸せの在り処について少し述べたらたちまち特大の溜息を吐かれた。そしてやれやれというようにするりと猫背になって、僕をじぃっと見つめた。…あとずさってしまう。
彼に否定されたらなんて、そんなのはたまらない。…泣きそうな顔になった、そしたら彼は目を瞑って、まあいいやと投げてくれたので、なんとか心は壊れることにならなくてほっとした。
でも、僕はほんとうに。
僕は幸福を知っているのです。
貴方が居てくれるのが全部幸福だと思う。それ以上を望まないことが幸福であることだと解っている。
ええ。

だから。



「…だから?」

ぱらりと、ページを繰る音が聞こえた。え、と霧は唇を開いた。声は出なかったが、そういったような顔をしていたからだろう、傍らの男はまた、だから?と紡いで促した。
「あ、あの…?」
わけがわからなかった。霧はおろおろと天井に目を彷徨わせ、そしてへにゃりと眉を寄せて傍らの男を子供のような目で見上げてしまった。
何故。
「……ぼくは、ねてるのでしょうか?」
「あほぅ」
ぽっこん!と額を丸めた雑誌で叩かれた。家康はかけていた眼鏡を外してそこらにぽいっと置くと呆れた目で霧を見下ろした。霧は数度ぱちぱちと瞬きを繰り返して、とうとううろたえた声を漏らした。それと一緒に、そっと布団の端を握って引き上げた。寒いのだ。何故だ…?
何故、布団に寝てるのか…。そして何故彼が傍に居るのか?…ああ、今は何時なのか…。
「寝坊、したんですよね…?だったら起こしてくだされば」
「お前は本当にアホの子だなあ…」
ごっそりと、怒る気力を根こそぎ奪われてしまったように肩を落として男は遠い目で力無く笑った。はっはっは。軽いカラ笑い。霧は思いっきりハテナマークを顔中に浮かべたが男はまるめた雑誌を元の通りまっすぐにしようと逆方向にまるめたりして、ごそごそと作業したらまたその雑誌を読み始めてしまった。また。霧には寝ろ、と。その一言をいって、片膝をたてて座った姿勢から今度は胡坐へとすっと変えて、霧から視線を外す。
「はあ…?」
カチコチと時計の秒針の音がやけに響く。
寝ろといわれた。
霧はごろりと仰向けから横向きになる。じぃっと彼を不思議そうに、物問いた気に、でもぐっと我慢したような複雑な顔で見つめた。身体はだるいので、起き上がるという抵抗する気にはなれなかったし、こんなにも静かに佇む彼をこんな間近で覗くことも稀で、…たまにはいいかなと思い直してじっと霧は家康を見つめた。ちゃんと彼の言いつけで寝てるし。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………ぁ、の?」
「………」
「僕、は、…その、家政婦で」
「ばっか」
「馬鹿ですが…、あの、家のことしないと僕は」
「いいよ。掃除くらいならさっとやっちまったし、飯ならツナの分も作って食ったよ」
「………………」
「静かに寝ろ」
「……ん」
「じゃないと治らん」
「………………………………………………………」
「………………」
「……………………………………………………ええっと?」

「風邪だ」

たっぷりと、五分の沈黙がふたりの間に横たわった。ちっ、ちっ、ちっ、と秒針の音がいやに響く。
その間の家康の状態はいつもの通りのぽんやりとした半目のままで、それでじっと霧を見下ろしていた。だがそれと面白いほどに対照的に。横たわったままの霧はうろたえた目を徐々に、徐々にじわ、じわ、じわりと見開かせていき、しまいには口をぽっかりと開けて呆然とした、…そして、はく、はくと動かして。
その時点で家康はおもむろに手にした雑誌をくるっとまるめた。中腰になる。

「えええええええーーーー!!!!?僕寝込んでるんですか!!!?」
「うっせえよ!」

間髪いれずにバコン!と飛び起きようとした霧の頭を遠慮なく殴りつける家康。ふんっと鼻息ひとつ。
ドン!と殴りつけられた頭部は枕の上でひとつバウンド。ううう…とうめく声が聞こえたがそれは無視して起き出しそうにないなという点にだけ注目した家康はヨシッと満足そうに呟くと、また雑誌をまっすぐにし始めた。
「…ったく、お前は昔っからにぶいからいかんよなあ」
ドスっと少し乱暴な仕草で座ると、やれやれといった感で家康はまたぱらりと雑誌を開いて読み始める。霧はぎゅっと両手に拳をつくって、涙目で諸悪の根源を睨みつけるが無視だ。頭は殴られたところも盛大に痛かったが、元からの頭痛もあいまって壮絶に頭がガンガンするのだ。
「い、いた…、こ、これ家康様のせいで今、すっごい頭痛ですよ、ね!?僕は病人だといったクセにこんな仕打ちですか!!」
「起きんなよー、起きたらひどいんだぞー」
「今更言わないでください…ッ!!!…ぅああ!頭ぐわんぐわんする!!」
「熱、結構高いから安静にー」
「ううう…、うう…、ひどい、…ひどいですよぉ…、重病人に、…乱暴なんて」
「お前なんかうぜえな」
くるか!?と霧は思わず枕をつかんで身構えたが…、あれ?と、いつまでも来ない攻撃に首をひねってしまう。
家康は穏やかだった。意外なことだが、霧に凶悪な一瞥もくれたりせず、静かに雑誌をめくり、黙々と読んでいる。思わず、おどおどとした目がきょとんとまるまる。霧はのろのろと枕をただし、きちんと布団に仰向けになって寝た。掛け布団も首のあたりまでひきあげる。
「………自覚、したのか」
「ええ…」
「お前はちいさい頃からいかん」
「はあ」
「俺の看病しか受け付けん」
「…………………」
これにはなんと応えていいのか解らず閉口してしまう。確かに、弱った姿など誰にも見せたくないと、身体を壊して寝込んだ時は誰も寄せ付けなかった覚えは霧にはあるが…。正直首をひねった。
「お前が俺のとこに来たばっかの頃、環境になれんくて倒れた」
「……………」
「俺のベッドでまるまってうごかねえから面倒みてやっただろ」
「………うっすら」
「かもな」
ハッとそこで家康は短く笑った。霧が家康の元へきた頃は割といい加減な記憶なものしか持ち合わせていないのだ。それは家康も承知の筈だが、…しかし彼の笑い声はどこか奇妙なもので、霧は更に首をひねってしまう。まるで忘れたふりしやがってコノヤロ、とか雄弁に語る声でありお前のそのタヌキに便乗してやるよといっているようで…。変な滅多にみない温かみがあるのだ。
そんな。
本当に覚えていない。
なにせ、出会う前もおぼろげで、出会った瞬間だけはっきりと浮き上がるように鮮烈に覚えていて、…そこからまたぼんやりとなって、仕事をし始めた頃からはっきりしてくるのだ。霧は目を閉じてぐるっと記憶箱の中身を引っ繰り返してみたが何も見つからない。…はあ、と溜息をこぼした。
ぐつぐつとした、身体の熱とは違った熱で茹りそうだ。
「わかりません」
「でも、俺がここにいるのが証拠だろ」
「……………気まぐれですか」
「かもな。夢かもしれねえ。お前の身体が治れば覚めるよ」
「…じゃあ」
「ふふ、甘えただなー…、んー?」
「………いやなひとだなあ」
「いやいや最高の男だよ」
「………そうですねぇ」
「お前は俺に父親を強請らなかったがな、まあ、…俺はそういう気でもいたかったよ」

ふっと目の前が翳ったかと思えば、パタリと覆われた。てのひらだ。冷たい、固い掌が霧の目を覆い、家康は静かに、寝ろ、と短くいいきった。
不思議なことだ。視界が塞がれると声がとても近くなる。霧はコクリと喉を鳴らした。
「お前に殺しも生きる術も家事もなんもかんも教えたが、…俺はお前に料理にひと手間かけるとか、すみずみまで掃除するってことまで教えなかった。知ってるさ。お前が泣きそうになりながら俺に懸命に尽くしてることはな、うざったいことこの上ないが、かぼちゃの煮つけが美味いから許してやってるんだから。はやく治せよー?」
「………………」
「泣くな。お前は泣く度になんか忘れるんだよ」
「………そ、んなことは」
「忘れるよ。明日の朝、俺が傍にいたらまたびっくりするんだろうなあ…」
「いいえ…」
「いやいや。お前は泣くほど嬉しいことを一番に忘れる変態さんなんだからなー?だからお前は薄幸とか言われちまうし、ささいな幸福しか抱けない。お前がそういう風なのは仕方ないさ。お前は俺に父親を求めなかったのだから」
「……だって、父親なんて、…わからない、ですから」
「あっそ。今となってはどうでもいいよ」
「………はあ」
「お前の望みが俺の傍なら、いればいい。俺はお前を置いて逝く絶望しかやれんけど、それでもいいんだろう?この変態が」
「変態は、その…いやですけど、…でも、…はい」
「素直だな。そして素直に寝ろよ」
「はい」

忘れるよ。彼はそういったから、忘れるのだろう…。霧はうとうと意識がまどろむのを感じながら彼の言葉を反芻した。
父親を求めなかった。
幸せなことほど忘れる。
泣けば泣くほど、そのことを忘れてしまう。

(ああ…、僕は)

昔、幸せなことをちゃんと知っていると言った覚えがあった。
霧はぼんやり、ゆるやかに沈んでいく意識の向こうに記憶を見つける。チカッと光った欠片の中で幼い自分がいた。大きく育った自分がいた。誰にも見せたくないと想った記憶だ。……ああ、だから『自分』さえも許さないのか。彼だけが覚えていて欲しい記憶なのか。彼からその記憶を聞きたいから。もう一度幸せになりたいから。 自分が覚えていなくても彼が覚えていてくれる。…ああ、幸せだ。
彼から与えられる『特別』な証拠。


(父親じゃあ駄目なんです。だってあなたはもうゴッドファーザーだ…。僕だけのものじゃない。僕は、僕と貴方だけの関係が欲しい。欲しいんですよ…。でも、欲しがらない為に僕は手にしない。ひとつ欲しがればきっと百まで欲しくなるんだ。だからささいなものしか抱かない。僕は貴方のモノになる。物になる…)

しあわせです。


……ほんとうは、ずっとずっとずっと、甘やかされていることを。知らない振りしてるのを許されている。


忘れることで貪欲にならない。
あなたの傍で幸せになる方法はそれしかない。















「……じーちゃん、霧さん大丈夫?」
カタッ、と小さな音をさせて僅かに襖をあけて綱吉が顔をみせた。それに家康は珍しく無表情に頷くだけだ。いつもなら綱吉の声には特大の笑顔で応対するというのに。だが綱吉は別段おかしな顔もせず、祖父の肩越しにそっと横たわった霧の様子を心配そうに伺った。
「大丈夫だけど、多分明日おかしくなるな」
「は?」
家康はさらっと霧の額にかかる髪を右手で後ろに流しながら、左手で白い額をそっと押さえた。…熱はだいぶ下がってきている。寝息もすうすうと安らかで眠りが深いのか、少しだけ口が開いていた。
「こいつの正常は、こういう熱出てる時だけだ」
「………なんで、すねてんの?」
「んーーーー」
傍から見れば家康の様子はいつもと全く変わりないが、…直感だろうか、綱吉はふっと思ったことを告げてみた。すると家康はきゅっと振り返り、じとりと綱吉を見つめ、そして霧へと視線をやる。綱吉は首をかしげた。
「綱吉が一番かわいいな」
「は?」
「でもなー…こいつほっとけねえんだよなーーーー…」
言った途端ガリガリと後ろ頭を掻きだした。めんどくさい!!そう叫ぶようだ。
思わず綱吉はぷっと噴出し、そしてけらけらと笑い出した。
「つーなあーーーー…!!」
「めんどくさいのに、でも面倒見るなんてすごいね!」
「そうですねーーーー!!」
「俺真似できないから!!」
「俺の真似なんか誰もできませんのですーーー!!」
こんにゃろ!と家康は綱吉にがばりと襲いかかった。綱吉はそれを甘受して、ずるずると膝の上に引っ張り上げられても平気でけらけら笑い続けた。
家康は不服そうだが、…まあいいかと、にんまり笑った。
「お前はいいね。いつだって素直に甘えて笑って。こいつもそうだったらもっと可愛いんだがな…」
いや、うざったいからいらね。
即撤回して、綱吉を抱えたまま家康は腕を伸ばして霧の額にひとつデコピンをかました。
どうせ明日には覚えてない果報者だ。








【 家政夫とご隠居 】
(特注・プリーモは家康という名前で日本に隠居中。霧は住み込み家政夫。綱吉は家康の孫。初代ツナ企画から出張中。笑)