迷子の時間はもうおしまいなのかもしれません。
堕 落
夏の色が空から爪弾かれていくかのようにさぁっと暗雲が広がっていった。白雨が降るのかもしれない。 嫌に蝉の声が甲高く聞こえてくる。暗い色は如何してこうも音を意識させるのだろう。 いきましょう。ちいさな声で綱吉が誘った。彼の声もとてもよく響いた。 「何処か雨宿り出来るとこまで急ぎましょう」 「そうだね…」 ポツリ。きっともう手遅れなのだと、針のように落ちてきた雨粒に雲雀は嘆息したが、だが綱吉の意見に賛同して おこうと思う。自分はいい、だが綱吉は大丈夫ではないだろうきっと。綱吉。ポツポツと段々と忙しくなってきた 雨粒から。え、と彼がきょとんと傍らの雲雀を振り仰いだ。黒い制服は充分過ぎる程に綱吉の頭から細い肩に 頼りない背中まですっぽりと覆い隠した。 「逃げ込める所は何処にもなさそうだね」 綱吉。濡れた前髪が黒く艶々として、 その狭間からちらちらと見え隠れする闇色に塗られた鏡面のような双眸がうっすらと蠢く。 一層肌は白く浮き立ち淡くふわりと紅を刷いたのではないかという口の端が愉快そうに綺麗に歪んだ。 笑みなのだ。彼は艶やかに微笑み綱吉の名をとても丁寧に舌に載せて紡いでいた。 綱吉。 白いシャツがぴたりと彼の体の線をなぞらえた。白雨だ。黒い髪は濡れ光り肌は透明さを無くし人形のような 色で凝り固まる。雨が。視界を遮って彼しか居ない。彼だけが。思わず綱吉は目を細めていた、ヒバリさん、 この人は。泣きたいような哄笑したいような心地のままにすみませんと…、謝罪の気持ちとは裏腹なものに綱吉の 胸は鋭く突かれていたのに紡いでいた。ひとでなしか。ひとでなしではないだろうと。舌を噛み切りたい気分だ。 綱吉はゆるく泣きそうにわらった。 (此れは苦い確信だ、其れなのにそうとは 思えず奇妙な甘ったるさでもって脳がじりりと焼かれている。) 「ヒバリさん、貴方が濡れてしまいますよ…」 「構わないよ。君の方が弱い」 ぐい、と。腕をひかれた。じわりと視界がぶれていく。跳ねる水音。世界の全てを打つ雨粒。 逃げ込める場所なんて本当に何処にあるのだろう。 ヒバリさん。ハリのある真っ直ぐなピンとした背中の人。俺は幸せなのかもしれませんと綱吉は思ってみた。 (きっと最後の瞬間まで其の目で俺を見つめてくれるんだろうな…。) 『 ……この人は、弱った自分の為ならば其の冷たく高潔な背中を容易く折ってしまうのだろう。 』 まるで雛を守る親鳥にも似た健気さでもって。 「なに、綱吉?」 「はは。いいえ、ただヒバリさんは優しいなって」 「そう?」 「はい」 この人はきっと。(泣き叫びたい…。)掴まれた腕が熱い。前を向く姿勢が美しい。ふらふらと歩いて行くしかない 自分なのに。惨めな気持ちで唇を噛んでいた。其れなのに綱吉の胸の内では幾つもの恍惚と罪悪感がぐちゃぐちゃと混ざり合った。 甘い痺れが体中を毒のように巡る。頭から被せられた制服を強く引き寄せたくなる。…いけない。 高潔な人だ、この人は。冷たく孤高な人。 ワカラナイ。 どうして其の美しく真っ直ぐな背中が。 何故? (僅かに柔らかく緩んだ瞳で振り返るのだろう。) 「……もうすぐ止むよ、この雨は」 平然と。(現実が溶けていく白雨に喰われていく。彼の顔が別の男の顔とだぶっていく。 幸せかい?誰かが聞いてきた。いいえ。そうではありませんよ。誰かがそう言った。) とてもこわいことだ。何故そう確信してしまうのだろう。 (其れはなんて残酷な幸せだろう。決して見捨ててはくれず其の背がまるまり自分を何からも覆い隠してくれる。 きっと死んだら墓だって作ってくれるだろう。) 其れは最早、愛といっても差し支えのない感情じゃないか。 「………ありがとう、ヒバリさん」 ずっと戸惑って(知らない振りして終には切り捨て見事に逃げおおせて)いたかった。 |