紅 鴉














「ほんとうに可愛らしい人ですねぇ」

 頭上から降ってきた声は、若干低めながらもまるで鈴を転がすような楽しそうな響きを含んで届いた。
 昼間でも薄暗いその場で空を見上げるようにして振り仰いだツナの視界で、不揃いに切られた黒髪はゆらりと揺れた。


 最初はその人だと分からなかったのは、ツナが人の顔を覚えるのを苦手としているからだけでなく、いつも目にする姿と、随分と差があった所為だ。
 濡れたように光る艶やかな黒髪は丁寧に梳かれ、何か芳しい香油で整え結われていた。細工の細かな簪が揺れる度、しゃん…と小さな金属音が零れるのを、ツナは主の隣で気もそぞろに聴いていたものである。
 今、頭上で穏やかに微笑う顔は勿論美しいが、いつも見た匂い立つ様な妖艶な美ではなく、最低限の化粧も施されぬ素の瑞々しい美しさだった。種類は違うが、全く損なわれる事の無い彼の人を、その人と分からなかったのはその髪……誰よりも美しく、彼の容姿の中で最も褒め称えられた黒髪が、バッサリと、肩よりも短く切られていたからであった。

「むむむむ骸さ…っ!」
「僕の名前はそんな可笑しな名前ではなかった筈なのですが、綱吉君が呼んでくれると、如何してでしょう、楽しい響きに聞こえますねぇ」

 「でも僕としてはやはり、いつも通り『骸さん』と呼んで頂きたいんですけど」と一層破顔した骸は喉の奥で愉快そうに笑った。かぁぁ…と赤面するツナの動揺を満足そうに鑑賞している彼は、ツナの奉公先、呉服「沢田屋」の上客である。それも特上と付けて良い程の。
 男の身でありながら娼妓として名を馳せる、彼は名を六道 骸と言う。

「寄っていってくれませんか? 綱吉君。僕、暇を持て余していて」
「…申し訳ありません、骸さん。俺、お遣いの途中なんです…」
「おや、何処へ行かれるんです?」
「胡燕楼へ…」
「胡燕楼のご主人なら、今ウチの大旦那様と話し込んでいますよ。入り口から入っていって尋ねて御覧なさい?」
 こういった臨機応変な対応が苦手なツナとしてはどうして良いやら分からない。
「大丈夫。何かあれば僕が進めたのだとちゃんと話してあげますから」
 だからいつも、ツナの大好きな笑顔で笑う骸の言葉に従ってしまうのだ。



 花鶴楼の戸口を潜り、骸に言われたまま胡燕楼の主人の所在を尋ねた所やはり此方に居られるとの事で、ツナの来訪を聞いた主人は話が終わるまで此処で待っているよう伝えてきた。図った様に上から姿を見せた骸が、ツナを自分の部屋へ寄越すよう禿(かぶろ)に言いつけると、ツナは荷物を抱えたまま骸の部屋へと通される。

「クフフ、久しぶりですねぇ。綱吉君とココで会うのは」
「骸さん…本当は俺なんか入れる部屋じゃないんですから」
 骸に呼ばれたとは言え、やはり分不相応な部屋に居るのは小心者のツナには居心地が悪かった。骸でなければ、仕事でもなく娼妓の部屋になど上がらなかっただろう。

「胡燕楼には何のご用事で?」
「あ…新しい反物が入りましたので、それをお見せに」
「おや、花鶴楼には来ませんでしたねぇ。ウチよりも先に弟分の胡燕楼の方へ持ってゆくとは…」
「ちゃんと持ってきましたよ!? 骸さんが眠いと言って降りていらっしゃらなかったんですよ!!」
「おやおや」

 びくりと肩を揺らして言い返すツナは失礼承知で、しかし弟分を先にしたというより失礼な誤解を解こうと声をあげた。そんな事だろうと思っていた骸だが、ただツナのそんな姿を見たいだけで言っているので、寧ろ予想通りの反応を貰って満足だ。

「綱吉君のお薦めはありますか?」
「え……俺の、ですか?」
「えぇ。僕に似合いそうな」

 にこりと笑って見せると、ツナはその場で黙って考え始めた。
 骸は彼の見立てならばどんなに冴えない着物でも着ただろう。最初の頃は、娼妓という印象が先立っていたのか、いかにもと言った様なキツイ色の着物を口にしたものだが、今ではツナの見立てもそう悪くない。
 そして、こうして考え込んでいるツナの顔をゆっくりと眺めていられるのも骸のお気に入りなのである。

「…紅梅…なんかは如何でしょうか?」
「紅梅…色ですか? 文様ですか?」
「色です。生地は細かい折り柄の。骸さんに似合うと思います」
 本人にはその意図は無いだろうが、吟味するようなツナの視線を向けられて骸は悪い気がしない。自分はその目に適うだけの美貌がある。
「そうですか、ではこの次お会いする時にはその反物も持ってきて下さいね」

 言葉でしか伝えないと言う事はツナの荷物の中には持ち合わせがないのだろう。
「えぇ…でも……」
 彷徨うツナの視線。遠慮しつつ伺う骸の。
「あぁ髪ですか。えぇこれのお蔭で店に出られなくてですねぇ」
 「困ったものです」と溜息を吐くと痛々しいものを見るようにツナが同情の視線を投げてくる。その心配は純粋に嬉しいものだ。

「どうなさったんですか、その…髪は」
「僕の人気を妬んだ他の娼妓に切られてしまいましてね」
「そんな…酷い……」

 勿論。
 その娼妓がもう生きてはいない事をツナに教える必要は無い。

 躯が資本の娼妓の世界の中で、他の娼妓に傷を付ける事は、決してしてはならない掟だと決まっている。
 男でありながら、そのあまりの容姿の美しさに陰間茶屋に置くのを惜しまれ、この花街一番の妓楼に娼妓として入れられた骸をどれ程妬ましかろうが。女であれば太夫も夢ではないと噂されながら、現実の太夫にも可愛がられ、上手く立ち回っている骸に付け入る隙は無かった。

(本当僕とした事がうっかりしましたよねぇ…)

 大切な商売道具のひとつでもある髪をこうもぞんざいに、揃える事もままならない程短く切られてしまっては暫く店に出る事もかなわない。

「だから暇で暇でしょうがなかったんです。今日綱吉君が来てくれて良かった」

「僕を……


 『慰めてくれますよね…?』と囁く声が艶を帯びて熱を持つ。


 骸は娼妓であり、金でその夜の春を買われている。気紛れとはいえ綱吉を呼び寄せ、ロハでその身を抱かせる見返りは沢田屋への便宜。
 そんな事をしなくとも売り手と買い手、良い顧客関係は築かれているのだけれど。

 そんな建前で小五月蠅い上役達を黙らせ、骸は今日も微笑って誘う。



「今日も楽しませてくださいね、綱吉君……」




End













2005/12/09