純潔の白は闇から産まれる。
「どうしたの、骸?」 パタリと止まった足音と共に彼がふわりと長い髪を揺らして振り返りまるで彼こそがこの世の神なんじゃないかと 有り得ない幻想が胸の奥にかぷりと甘く咬みついた。骸。もう一度瑞々しい声で呼ばれたら泣きたくなった。 「……いいえ。雪が降り始めたなって」 ああ。彼が薄く微笑みながら天を仰いだ。 するりと背中を滑るその滑らかな色の髪は出会った頃から切られたことがない、其れ故にとても長くてとても長い其れを 尊すぎると恭しい気持ちで想いながらも触れたくなっていく。触れてはいけないような気がしながらも、そんな 気持ちを見透かす瞳が触れてみてと微笑んでくれた。うれしい…。 「道理で寒いわけだよね」 「ええ。早く宿へ急ぎませんとね?」 「骸は寒いのは駄目?」 「いえ、特に苦手ではありませんよ」 「じゃあ明日は雪合戦でもしようか?」 「………は?」 ゆきがっせん。……二人で?そんな、多分、きっと。骸はクスリと静かに笑おうと思っていたというのに 口許は意に反してぷっと吹き出していた。それにきょとんとした琥珀の瞳が不思議そうに見上げてきた。 だって、自分の方がね?そっと彼の髪に触れて口許まで持ち上げてみながら、わからないんですかと 問いかけてみた。さらさらとした髪は清潔な匂いがして骸の鼻先を甘くくすぐった。 「絶対に僕が勝ちますから」 「?」 「肉弾戦なら解りませんが、雪合戦というものならば僕が絶対に勝ちますから」 とんとん、と軽く。骸は彼の髪を取った手とは別の空いた方の手の人差し指で自分のこめかみより少し上の辺りを 指し示した。とてもにこやかに微笑みながら、僕はとても年季のはいった策略家なんですよと。 にこやかな笑みの中に底意地の悪さを滴らせながらはっきりと彼の完全敗北を宣言した。 だが、それでも。骸は拍子抜けした、内心首を傾げてしまう。彼の顔は未だきょとんとしたままなのだ。 「……それは、やりたくないってこと?」 「はい?」 「絶対に自分が勝つからやらなくてもいいって言ってる?」 「……ええっと?」 勝つことが決まってるからやりたくないという事はない。 彼のように負けると解って立ち向かう健気な無謀さなど一欠けらとしてこの心に宿ることはないだろうとも知っている。 (彼とは僕は違うイキモノなんです。それは甘い気持ちで心に滲む。) 勝つことが全てだと思うが絶対に常に得なければならないとまでは思わない、負けるというのなら退路をきちんと保ち 再戦への肥しにしよう。……と、違う違う。 彼は雪合戦をしたいのかと聞いているのだ。骸は口の中でゆきがっせんという言葉を舌の上転がしてみた。 雪が目の前ちらちら舞って先程よりも寒くて身震いしてしまう。雪は白くて綺麗だ。曇天から産まれるというのに。 ……ああ、だからこそ頼りなくすぐ消えてしまうのか。踏み潰されて消えるのか…。妙に納得した心地のままに ふと彼の目を見つめてしまった。 「雪はまるで花びらみたいだ。骸の黒髪にすごく映えるよ」 すいっと細い腕が真っ白な花びらの中から伸ばされた。やわらかな、やわらかな、まるで夢想のようだ。 (実に恐ろしい…。)するりと柔らかな現実が残酷な夢に転じてしまうのです。ああ…。 彼が甘く目を細めふわり微笑む瞬間。 骸は今度こそ泣きたくなった。融ける雪。水へ。また空へ。雪に。 ……けれどもこんなにも優しい彼が二度ともう産まれないのだ。 雪よりも白く、雪のようにちいさな頼りない命。自分が何者でもいいと、彼も何者でもいいと自分は。 このまま、躊躇わず触れてくれる彼をこのまま。このまま……、ああ、本当に今すぐにでもぎゅっと閉じ込めてしまいたい。 美しいままに、例え此れが脆弱な感傷の為せる業でも良かった。幸せ。其れを。 奇跡は滅多な事では産まれないことを誰よりもよく知る故に。 「……明日、積もってたら雪合戦なんかしないで、…ただ、くっついていましょう?」 『俺は堕ちた奴の方が好きだがなぁ…。お前は其れを見るのが恐ろしいようだが、この世に闇に堕ちない奴なんざあ いやしないんだぜ?知ってるだろ?なあ、この傲慢な毒蛇が』 「ねえ、綱吉さん…」 「ん〜?」 なに、起きたの?と胸の上にべたっと貼りついている少女の頭をぽんぽんと撫でながらも綱吉は読んでいる本のページから 決して目を離さなかった。ぺらリ。ソファに寝そべった自分の腹の上に登ってしがみ付く少女を気にすることもなく、 ちいさな頭を撫でた手でページを繰った。少女は何か言いたそうに唇を少しだけ震わせて顔を上げたが、 しかしまたぺタリと青年の心臓の音に耳を傾けるようにその胸に懐いた。綱吉さん。少女らしくない確りとした大人びた響きの発音。 其れに違和感というものや奇妙さを感じることもなく青年はまた再び、ゆっくりとちいさくまるい頭を優しく撫でた。 するするとした指通り。まっすぐな黒髪が嬉しそうに揺れる。ねえ、綱吉さん。少女は目を閉じもう一度彼の名を呼んだ。 「雪が降ってきましたよ」 「ああ、さっきからね」 「積もりますでしょうか」 「どうだろう?まだそんなに降ってるわけじゃないし…。でもひょっとしたら積もるかもかなあ?」 パタン、と。閉じた本を近くのテーブルに置いて窓の外をしみじみ眺めてみると、本当に少なく雪がはらはら舞い降りている。 今は夕方だ。更に冷え込む夜の内にしんしんと降り積もる可能性もある。綱吉はよいしょっとと骸を抱え直しながら起き上がった。 骸は軽かった。ひょいっと抱き上げ膝の上に座りなおさせる。だがすぐにもぞもぞ動いて細い両腕を綱吉の首に巡らせて 更なる密着を求めるように抱きついてきた。 「寒いの?骸?」 『積もったら雪合戦でもしようか?』 「いえ」 眠たそうな声だね。少女のちいさな背中に綱吉の手がそえられる。そして、ぽんぽんとあやすような愛しい振動が 響いた。眠たいなら寝てもいいよ。優しい声だ。俺は此処にいるから。柔らかな黒髪の中にとがった鼻先が埋められた。 綱吉さん。綱吉さん。心の中で何度も何度も唱えながら。つなよしくん。そっと骸はちいさく言葉にした。 (聞こえませんように)泣きそうなままにぎゅっと更に縋りつけば、ふっと零れる甘い吐息。 「骸は寂しがりだから、ずっと傍に居てあげるよ」 『堕ちればいいじゃねえか。それでも尚強く惨めでも良しと上向く姿こそ俺の気に入るところだ』 (儚かったのはどちらなのだろう。弱いのも。…これが情けだと思っていた。美しいままに終わらせることが互いに) 「ええ。ずっとずっと、ずっと傍に居てください」 それこそ、と。しかしその先は紡げなかった。骸は苦く目を閉じ、神様がこの人だったらいいのにと心の底から (確かにこの人は神だ。残酷で優しい。絶対なる自分の神さま)、闇の底から顎をそらし空を見上げてその美しさを 羨望するように浅ましく願った。 「そして明日、雪が積もったら…」 (終) 2006/01/01 |