腹を空かしていたことだった。其れが最も古く残った記憶だろう。ただし、 その時の自分が幼かったのか弱かったのか、青年であったのか死にかけていたのか、そんな事は まったくもって覚えてはいない。老人だったかもしれない。腹を空かしていた。飢えていた。 ぐちゃぐちゃと混濁した激しい曖昧さの渦の中で、まるで泥の中輝く宝石のように、 其れだけが。 強く。つよく、血を噴き出させるよりも鮮烈な色彩でもって覚えている…。

飢えていた。









盲 愛












過去を思い出すことはよくあった。ふらりと、何かに一瞬にして踏み込んでしまう。 ぼんやりとしていても何かを深く鋭く突き止めるように思考していても、ふっと目の前を翳らすのだ。 常に実に唐突過ぎる。 肌に触れる空気はザッと乱暴なまでに一変し現実感匂うもの全てをすっかりと剥ぎ取られてしまったよう。 さて、自分は一体何処の誰だったかなとのんびりと骸は思考した。 最早慌てることでもない、ああ、もう慣れきっているのです。でも、ただ…。

『 むくろさん ! 』

この子とはもう出会えないのだなと、どろりと胸の奥が、とても何かにじわじわと炙られた。目の前で無邪気に 微笑む子供。もう男であったのか女であったのかは思い出せない、けれども、その純然たる色のたっぷり 塗られた無邪気な無償の、愚か過ぎる程にうつくしい、……一途なひたむきな思慕を抱き依存する瞳が。

ムクロはゆうるりと微笑むと子供に手を伸ばしていた。過去の記憶のまま。ぴったりと触れ合いながらもぶれる記憶と感情。 此れはすでに失われたものだった。子供はもういない。このこはもう、もう自分をよばない…。記憶なのだ。 激しく鮮明ながらもとろんとぼやけた、子供はもうまっしろな色に塗り潰されていってしまっている。(現実にかえるのだ) 子供がまた嬉しそうに?呼んだ。骸の名はいつの時代も『ムクロ』だった。けれどもこの子程に自分の名を 丁寧に呼ばれたこともないだろう。 真心がまったく違い過ぎている。雛のような愛。 時折この子の目をつぶしてやりたいとさえ思わせたものだった…。
むくろさん。
……ああ、またよんでくれたね君。


「……なんなんでしょうね、君は?」

現実感がぴったりと肌に張り付いていた。明瞭となった視界。 思わず漏れた言葉は鼓膜を震わせ、声にしていたのかと、骸はほんの少しだけ口許に笑みを滲ませた。 過去を思い出してしまうことは珍しい事ではない。 けれどもこの後味はどうなのだろう?苦い、そういうわけではない。だからといって甘く切ないといった 類いでも勿論なく、ただ如何なのだろうと思う。自分はあのこに対して親らしい事は全てやってあげたと思う。 だが、特別に愛したわけではない。愛されてはいたが、こよなく愛した覚えはとんとない。だが、如何なのだろう 此の後味の悪さは……?

「確かに君は特別だったかもしれません…。けれども其れは、特別手塩にかけただけだったのにねえ?」

ねえ、むくろさん。あのこの言葉をそっと真似てみた。感傷なのだろうかと思ってみたが、違うのだろう。 骸は強く微笑んでみた。笑顔をつくる。あの子は死の間際さえ笑顔を望んでいたのだ。(おもいだした。)
わらって、あの子の言霊。多分自分はもうあの子のことを忘れているといってもいい程に覚えていないだろう。 情けのないひと。そう言われているのかもしれない。だからか、…いいや?
こんな酷い焦燥の重く圧し掛かる理由はきっと多分其れとは別のことだろう…。








(…僕は多分、名前を付け忘れたことを思い出したんだ)









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