その両手は鋭い鎌でありながらも其の姿は祈る様に見えて。









慈 愛












己には彼を知ることが全てだった。彼を知る事。彼が与えてくれる物。其れを食んで生きていく。 乾いた大地に染み込む水のように全てを速やかに飲み込んだ。例え、誰かを屠る術だとしても迷わずに頷き手にした。 彼は満足そうに微笑むのだから。強烈な依存だ。彼の頷きの中にこそ此の命の存在する許しが在り、 同時に膨大な価値へとするりと生まれ変わる、ああ、本当に彼次第、己の命はそのひとときから光り輝く事も可能だ。

『君は、本当に良い子だ』

其の言葉の為だけに生きている。この美しい人が優しく微笑んで、この頭を幼子のように撫でること。 そんな幸福は誰の下にも降らない、其れを得ることの出来る唯一がこの自分。自分にはこの人だけが居ればいい。 この人のくれるモノさえ在ればどれだけだって生きられる。此れは愛なのだろうか。彼はしばしば思考した。 その度、愛ではないだろうと断じてきた。だって、彼から与えられないものがどうやって自分に芽生えるというのだろうか。 あるのは依存だ、強烈な依存だ。君は僕が居なければ生きていけない。その言葉通りに生きている…。 この人が居なければ生きていけませんとも。この人が殺してくれなければ死ねませんよ。
命懸け。其れが愛の専売特許と思うこと無かれ。強烈なる依存も命を賭しているのだから。


「お前は本当にムクロさんの狗だな」

それはからかいというよりも抑えきれない諦観といった方が良いのだろう。呆れをとう追い越した、虚脱じみた、 脆い優しさを真似てみた言葉だった。 男は自分よりも随分と小さな背の、まっすぐな背を持った彼の迷いない彩りの瞳が無機質に輝くことを好んでいた。 感情の生ぬるさが何処か嫌いだったのかもしれない、それとも忠実な人間の存在を夢見ていたのか、善を憎んでいるのか、 男にはその男の特有の内側がある。彼は特に其の事を気にしなかったが、けれども今日はカチリと何か頭の螺子に触れてくるような 気配が匂ってきたのだ。狗、そう言われる事は特に大した事ではない。卑猥な意味でもって発せられた事さえあるのだ。 この男にそんな下世話さが在っただろうか。キロリと少しだけ目玉を動かして見据えてみた。上背の大きい男だが、 懐も等しく大きいわけではない事を知っている。飢えた目の男でもある。暴力の虜の時もある。 殺戮は自分の方が長けている。

「……そして、いつまでも隠していけると思うもんじゃない。あの人は本当に気付かないんだか、 気付いても見ない振りなのか、」
「いいや、俺の事は全て俺に任せているだけで、ムクロさんは知っていても解らないんだよ」
「なんだあ、そりゃあ…」
「俺の死期が近いと知っていて、そして殺し方が解らないんだ」
「………………そうか」
「俺はムクロさんの傍に居る。死ぬのはあの人の為と決めているのだから」
「お前は本当に切ない狗だなあ……」

すきだったよ、迷いないお前が。男は優しく微笑みながら告げた。出来れば子を産んで欲しかったのだと、其れが 誰の子でも良かった、お前が誰かの胸の中に居た事実が見れたらと……、なかなか残酷な事を述べて立ち去ったのだった。

「そうか…、でも俺は誰にも追いつけない程に速く走らないと駄目なんだよ……」

女であることも捨て、感情も、人間であることも、何もかもに囚われないように、たった一つのものだけを持って、 それだけで生きていきたいのだから。名前など不要だ。あの人もそんな事解っている。 名付けるということは区切りをつけることだ、切り捨てなければならない、立ち止まらなければならない、 名前を付けてしまえば、終着を見てしまう。 『たった一つのものだ』という確認だけでいい。これだけで、これさえ在ればいい……。 此の『混濁』を大切に抱えて走っていくよ。

「俺はムクロさんの物だよ、例え、貴方自身が貴方のモノでなくても、貴方の物が俺であり、貴方を所有する者の 持ち物ではないのです、俺は」

天を仰げば、……ああ、もう視力がおちてきているのかと淡々とした心地で知る。あの日の曇天。あの日の天国。運命。 目を閉じればあの人の姿がモノクロの中に鮮やかに灯った。貴方に感謝しております。 『彼』はうたうように祈るように。貴方の為に何処までも走り続けましょう。死ぬまでと、役立つ為に。 何からも守りましょう。あの日約束した通りに。何からも逃げ切ってみせましょう…。 開いた瞳の前は相変わらず霞んでいた。もう感覚だけだ。鍛え上げられた鋭さで、生きていく…。 あの人が殺してくれて死ぬ許可を与えてくれるまで。

「……俺は、あとどれだけ貴方の為にしてあげられるのだろう。どれだけ、走っていけば?」

くく、と思わず笑みが漏れた。ゆうるりと躯を蝕む毒がとうとう脳にまで達したか。出来る事などないのだ、 出来る事を与えられてるというのに。月に手を伸ばす子供のようじゃあないか。走ればいいのだ。たったひとつだけを 抱えて今まで通りに。 (振り返ってしまえば掴まってしまうのです、とても、とても恐ろしい激痛の地獄に。永遠の胸の傷みに。)





















『あいしてあげられたらよかったね。貴方のモノであること、私はそれで充足してしまった。』






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H18.2.12