自分の中には得体のしれないかなしいものがいつの間にか詰み込まれていたんだ。
(そうして彼はいった、やさしく微笑みながら冷たい響きで彼は…、 『あたたかくなまぬるく過ごす筈だった君の少年期、其れを僕は奪う、奪われた僕が奪う、 君はもう何処にも戻れないけれども僕も一緒に迷ってあげよう。さあ、サヨウナラからはじめよう…、』)









w i t h o u t












自分は世界への一歩を誰よりも先に踏み出してしまったのだろう、うとうとと終業のチャイムを聞きながら 彼は思っていた。眼の前が。暗く世界は澱んでいたわけじゃない、母親も父親も相変わらずで兄もまた兄のままに ごそごそとしている。ごく一般的な家庭の子どもなのだ自分は。飛び抜けて不幸せでもなくすこしだけ幸福な家庭。 正月や盆に行くべき田舎はないが、住んでいるここは少しだけ田舎で、きっと自分が大人になってもっと都会なところで家を持てば 充分此処は『田舎』と評したって誰も文句などいわない。宙ぶらりんな町なのかもしれない。 そこがすきだと彼は思う。電車で少し行けば充分都会な町並みに出れる。少しだけ物騒なものから遠のいた平穏な町。 彼は目をこすりこすり、日直のキリツ、レイ…、といった声にのろのろ反応してあくびひとつした。 隣の席の女子が『みーくんだめじゃないのー!』と注意を飛ばす。それに彼は、あーとかうーとか、…ごめん!と最後には 屈託なく笑ってなかったことにした。
今日は宿題などない。
どこか寄り道していこう。黒いランドセルに筆箱だけつっこんで彼はのろりと立ち上がって、 またあくびひとつ。ばいばい。ばたばたとしている同級生に友達にそれぞれ声をかけて彼はとことこと教室を 出て行く。
廊下はおどろくほどにあたたかく明るかった。大きな窓。大きな青い空とまっしろな雲がゆうらりと。同年代の少年たちの声。 わらい声。……とおい。明るい世界。うすっぺらい身体の奥のなかの心はシンとしてけれどもその眩さに くらりとしてこの光景に目を奪われそうになる。 思わずランドセルのベルトを握り締めたくなるのをこらえてへらりとわらってみせる。
ああ、世界は。(ばたばたと通り過ぎていくこどもたち。肩がぶつかった。)

「眠たくなるのはお前のせいだ…」

こそりと誰にも聞こえないように彼はちいさく呟いた。世界がゆらゆらうつろう。目がまたかすみそうになる。 おまえのせいだ。もう一度その言葉をいってやれば頭の片隅から、まるで背後からぬっと顔が飛び出てきて囁くように 耳元にちりんと声が響いた。

『……けれども世界は変わらない。』



少年の中にある日突然もうひとつの何かが入り込んだ。朝目覚めたときにハッとした。 まるで今まで靄のかかった世界に住んでいたのではないだろうかと思うほどに視界がはっきりとしていたからだ。 すべてが明瞭だった。あまりにもクリア過ぎて、思わず少年はその日熱を出して寝込んでしまった。 心配気に額に触れる母親の言葉さえ別人が紡いでいるんじゃないかと思うほどにはっきりとした優しい『女』の声で。 兄もまた若い『青年』の声で。……わけがわからない。言葉をそのままに受け止められずにその奥底をのぞこうとしている 自分にまた戸惑ってしまう。言葉は言葉だ。言葉には意味と建前がある。言葉には意味と感情と作意がある。 言葉には…、ぐるぐるとナニカが淡々と滑り出してくる。少年は今までのように『ありがとう』がいえない。 心配させてごめん。それさえもいえない…。泣き出しそうな目で恐々と母親を見つめる。こわい。このひとこわい。 そして自分の中もとてつもなくおそろしくて、おそろしい…、少年は先程食べた粥を吐き出してしまった。 こんな風に胃の中をひっくりかえすようにして腹の中に胸の中に、あたまのなかに、潜むもの全部吐き出せたらいいのに。 げぇげぇと泣きながら吐き出して吐き出してそうしながら、彼は、絶望を知った。

『 もどれない。 』

頭の中でひびく声は自分の声なのかなんなのかは解らなかったが、だが、それは紛うこと無き少年の本音であった。

カチ、と小石を蹴る。ちいさな足だ。少年はそんなことをふと思った。これは本当に自分の言葉かな。 そう胸中で紡げば、僕かもしれませんね、だって、君ほんとうに小さい。うすっぺらい身体ですからと、 ふんわりと言葉がピリッと耳元で響いた。もう思わず後ろを振り返ったり耳をぱし、と押さえることも しなくなった少年は、そっか、それだけいってまた小石を蹴った。…彼の名前は『むくろ』。 少年の明瞭なる視界となった原因だ。ばけものだ。ひどいなあと彼はいうが、それもそうですねとかいう。 彼は身体がないという。それ幽霊じゃんかといったら、そうじゃあないんですよ、だって生きてますからとかいった。 心霊特集の番組をふっと思い出した。幽霊って死んだ自覚ないよ。そういってやったら、そうですけれどね、 でも本当に違うんです、確かに幽霊に似てますけれど、…ああ、どちらかというと怨霊の方かな?なんてのんびり 語ってきた。面倒なばけもんだなこいつ。少年はもう彼が自分の中に潜むことに追い出そうなんてことも諦めた。 恨み言は尽きないけれど。

「今日は、お兄ちゃんの学校寄っていくから…」

途端、ぞわっと背中が粟立った。まるで猫の気分だ、背中の全ての毛が毛穴が、ぞわぞわぞわぞわとひっきりなしに びりびりする。天敵を目の前にして一生懸命に威嚇する猫。背中が。背中がざりざりする。それほど嫌…? そうじゃないと少年は知りながら問う。彼はすぅっと冷えた眼差しで固定されたまま。 いやかい?もう一度問うても無言、背中に走るどうしようもない感じは薄れずにまた強くもならずに、 ただ、ひっきりなし……。宿題ないんだ。少年はいう。お兄ちゃんの部活姿みたいんだ。少年はいいつのる。

「むくろ…、こわいけどあいたいのしってるんだ」

怖い?なにがですか…。ハッと鼻先で笑う声が憎憎しげに漏れでた。このむくろというものは実は少年の理解者になっていた。 だがそれと同時に少年もむくろの端を齧っている為に『彼』を理解した、そして彼の知りたくない解らないといった事をも。 素直さ。それが柔らかい少年の心にはあり、彼には全く無かった故に。 (………『彼ら』、は。『別個』のままに。魂食い合うこともなく一つの躯に奇妙に長く『共存』を為した。)

「恋なんだよ、それが…。ひどいものだと思うけれど、きっと…、楽しいことじゃあないけれど。 むくろは彼が好きになったんだよ」

ポロリ、…思わず涙が零れ出た。すき。好きだった…。少年は好きな女の子がいた。けれどももう好きにはなれない。 ただの初恋の子。それだけ。母親もやさしいひと。でも、何処か、…何かが違って、友達の母親みたい。 自分の母親なのに、信頼して信用して頼りにしてきたけれど、絶対に正しい人じゃあなかった。嘘もいう。 ごまかしもする。いやなことを隠す。覆う。ふつうのひと。今になって彼女は少年にとって絶対の正義であったのだと 気付く。優しくてこの世でもっとも信頼出来る絶対の力を持つひと。自分を助けてくれる。 ……そんな神様みたいに思っていたのか、両目からぽとぽとと涙を零しながら、……ああ、そっか、 目がつぶれているって幸せなことだったんだ。少年の目はもう正しく世界を見つめて誰よりも一歩先に 進んでしまった、この『むくろ』のせいで。家は温かな居場所だ、切なく自覚する。 殺されない。殺そうとする人なんかいない。それだけで本当になんでこんなにも……。

「むくろ、ねえ、むくろ…。あんたは本当に世界を深く広く見過ぎてるんだ。ちいさいことを踏み潰してもいい、 でも、彼は踏み潰してはいけない、彼への気持ちを、…だ、だって、…むくろは、彼が」

囀るな。ビクンと少年の身体が大きく軋み痙攣した。歩みがピタリと止まった。 スゥーっと少年の視界が暗くジリリと塗り潰されていく。ぐらぐらする頭。重くなる瞼。そして…。 少年が再び瞳をパカリと開けると、両目は赤と青に染まっていた。

「……ええ、彼に僕は逢いたい。けれどもこのままではいけない。このままでは駄目なんですよ…」

殺されてしまう。
むくろ!少年が叫ぶ。いいこだから大人しくなさいと微笑み、くるりと骸は少年の身体を方向転換させた。 むくろ…。少年が悲しく訴える。むくろ…。少年は諦めの溜息を零した。かなしいね。ぽつりとそう呟いて もうむくろの意のままに任すことにした。かなしいね。寂しいね。かなしいね。少年は優しく紡いだ。目を閉じた。 ぽろぽろと涙はまだまだ零れていた。

「世界は甘くない。世界は変わらない。心が変わるだけなんですよ。君の心が変わって君が世界に近付く。 それだけ…。ただ、君が変わり僕が変わり……」

ふっと自嘲の笑みが晴れ晴れと骸から漏れ出た。ああ、なんてことでしょうねえ。

「彼は変わらないんですよ…。どんなことをしても何をしても。世界の終り、または世界の果てに行っても…」

持ち上げた顔の先に、大きく広がった空が橙に光り輝いていた。暁のようですねえとむくろがいう。 雲の影の色がまた美しい。壮大な終り。僕はそれを待ち望む。誇るような口調。

「僕はね、彼の敵で居たいんですよ」

最後までね。クスクス笑いながら、先程蹴った小石をむくろが蹴る。コン、と電柱に当った。 彼が君のようになってしまうのが耐え難い…。僕を理解してくれるなんて真っ平だ。 コツン、……コツン、と。小石を蹴りながら家路を進む。チリリンと自転車に乗った並盛中の生徒が 素早く横切っていった。

「……僕はあの穢れない瞳で見下されたいんですよ。あの、僕に向けた烈しい憎悪を一生保って欲しいから」

恋だよ。少年がまたつぶやく。いいえ、娯楽ですよ。むくろは反論する。笑いながら。


「『恋に狂うとは言葉が重複している。恋とはすでに狂気なのだから。』」


少年はもう誰も愛せないだろう、そんなチリッとした鋭い痛みを胸に抱いた。こんな妄執の端を齧っては もうどんなあたたかい声も憧れた綺麗な恋情も何もかもが手に出来ないだろう。俯いた視線をさらりと横に 流しながら、少年は。かなしいね。あきらめたようにあわれんだ。

『もう滑り出したんだね…。彼はもう二度と生まれないから、僕もだけど、でも君は永遠だからそんな形で絡むしかないんだね…?』


杯から零れ落ちた美酒。それが彼、もう二度と杯には戻らず地中に溶ける流れ。(ならばならば、ならば……。)








「ころしあいますよ、彼とは…」





サヨウナラ、『世界』。(僕らは手をにぎりあう。いつかの日まで、彼が、『敵』に向かって立ち上がるまで。)

(終)











 アトガキ
こ、こんなんでいいのかなあ!とかおもいつつもこれがいっぱいいっぱいでにげておく!(あわわ!!)
2006/07/13