だからこそと僕はつぶやく












彼を思い出すものなど何もないだろう。
光をたたえられた青い空の下でいつもそれを考える。骸はひとりぼっちだった。 今回の生まれは古くからの大商家で、 カランカランと足を振って下駄を鳴らしぼんやりと縁側で過ごせる身分だ。 その上、顔も上等であれば微笑むだけですべてが面白い程くるくると廻っていく、父も母も 気味が悪い程に骸を下にも置かぬ溺愛ぶりだから退屈で仕様がない。将来はこの家を継げばいい。 骸は愛想が良かった。頭もよく廻り商売に向いている。この先に何の辛苦もない人生が広がっていると いってもいいだろう。例え強盗に襲われ屋敷が火に巻かれようと地獄巡りを為した魂ならば、 そのようなただびとの窮地など風に舞う木の葉のように軽くうすっぺらい代物でしかない。 骸は目を伏せ大儀そうに溜息を吐く。平穏。平穏だ…。美しい世界にいるかどうかは曖昧だが、 善良なひとに囲まれていると思う。闇を知らないものばかり。やさしい…、生温い、まるで羊水に浸るような日々だ。 目の端に涙が滲むような、こんな退屈な日々に彼は、こんな日常にいたのかと奇妙な心地になる。

(きみ、は…、)

ぱさりと前髪が目の前を覆う。午後の陽射しが後頭部を熱する。俯いた顔の中で骸の目は泥のような色を宿した。
そんな日々を過ごした君は、君の本質はこのような日々に培われたのだと、骸は戦慄いた唇にそっとふれ閉じる。 …それでも君は、君の本質は……、ぐるぐる巡る言葉があり吐き出したくない声がある、 ゴクリと喉を鳴らした骸はいつだって逃げ出したかった。 こんな日々を過ごした彼。愛された。真綿で首を絞めるようだ。いっそのこと…、 ザアアッと突然の強風に庭の木々が枝を揺らしバラバラと葉を散らす。 骸の心の慌しさを表すかのように更なる強風が吹きつけた。
耐え難い…、キシリと心臓を病んだかのように胸が激しく痛む。狂いそうなほどに苦しい。目頭に熱がうまれる…。 頭を掻き毟り叫び出していまいたかった。
骸には惨劇が必要だ。
血生臭いドロリとした粘質で陰湿な、そんな暗闇が今すぐにでも欲しくてそこに逃げ込んでしまいたかった。
耐え難いのだ此の日々は。ひどく、耐え難い。
たえがたく…。
(けれども其の隙間にはある思考が根付いているのだ。)

「………どこにも、いないから、だ」

堕ちることは容易い。
引き結んだ唇を解きぽつりと零れた言葉を攫って風は黙り込む。また元の静寂が骸の目の前を埋めた。
鮮やかに美しい世界に骸は置き去りにされる。垂れた頭をずるりと持ち上げ、いたむように目を細めた。
世界を滅ぼしてしまいそうだ。
切実にそうしたかった、けれどもカラカラに渇いた喉から搾り出した声は弱く、それを片頬でわらいながら骸はまた俯く。きみはいないのに。 脳裏で恨み言がつらつらと漏れ出す。きみを。不可能な言葉をたくさん紡いでいく。 のろいのようにたくさん。
敗者なのだろう結局自分は。くつりと先ほどよりも強く微笑む骸。のろりと顔を持ち上げた。


「これだけは違えず解っているのです、君だけが僕を救うことが出来るのだとだから僕は、…君を、思い出せないだろう暗闇には如何してもひとりじゃあ行けない」











(終)











 アトガキ
1月29日に某所のとこに突発かきなぐったものー。
2007/03/25