狂った男がいた、狂わされた男がいた、たった一人の為に未来永劫に捕らわれることを良しとした幸福な男がいた、 何も知らずに罪を重ねていた男がいた、たったひとつの言葉を待ち望み死に続ける男がいた、…愛してる、愛してる、そう紡ぐ唇が誰の口付けを望むのかさえ忘れ果てながら笑う男がいた。



ひらひらひら。




「救おうとしなければ、ひとは堕ちていくばかりだ」


ひっそりと冬の朝のような冴え冴えと清らかな声がカツンと鳴り響く。綱吉はきょとんと瞬いた。男の眼差しは遠くを見つめ薄い色素の髪はさらさらと光ににじみ、溶け出してしまいそうなくらいに煌いていた、…そうしてその下で黄金の瞳が透明な色へとするりと移り変わるのだ。すくおうと、綱吉は口の中でひっそりと彼の言葉を繰り返し舌の上でゆっくりと転がした。ころりころり、コクリ、喉がなる。うっすらと眉間に浅い皺が刻まれ脳裏にぽつんと浮かび上がった言葉があるひとつの思いへと吸い込まれていく…。ああ。目を閉じれば…。綱吉はぽつりと思うのだ。妙に力強い確信と暗がりに踏み込んだ寂しさで。彼が誰を救いたかったのか…、隣りに腰を下ろした彼は罪深く虚空を見つめる瞳は美しく、夜のように美し過ぎて悲しい、…夜の生き物のように忍び歩きながらけれども人間の範疇に在り続けて生きようとする姿勢を不恰好ながらも持ち続ける家康。俺は生き汚い生き物だから。寝物語のようにぽつりと紡いだ声を綱吉は知っている。彼は誠実な獣だから苦しい。苦しくてくるってしまいそうで『綱吉』が手放し難い…。綱吉の両手が彼にとっては何の救いにもならないちっぽけで無残な代物であるというのに…どうしてか、それがいいと。それがいいのだと光を求める何かのように情熱を込めて必死に縋られてしまうから未熟な綱吉はずっと途方に暮れてしまいその手に捕まったままだ。取り押さえられ、…じゃあいっそ切り落してあげるから持っていきなよ(はなして…!)と何度言いたくなって衝動的に吹き出るマグマのようにぐわっとがむしゃらに逃げ出したくなったことか。すでにもう数え切れない…。(今となっては遠くの出来事のようにも感じた。)今もなお、口を固く閉じて必死に堪えているのだとしても。意気地の無い話だと綱吉は沈むだけ、身の内の警告を無視し続けていた。役に立たない。役に立たない。(雪のように降り積もる言葉の向こうで彼は静かに微笑むのだいつの時でも…。)

「…じーちゃんは、やさしいね」
「いやいや、いーちゃんは恥ずかしい生き物ですよ」
「いーちゃんが冷たいのはきっと与えてしまうばかりだったから」
「その割に奪ったもんのが多かったよ。富ならいいんだけど、命はなんで返せないのかね?」
「じーちゃん…」
「いーちゃんと呼びなさい」

「かなしんでるんだね」

ぽつりと落ちた言葉は森の奥にひっそりとある消極を極めた泉を揺らすひとしずく。虚空を見つめた瞳はぎょろりと動き固く凍えた眼差しで午後の陽だまりにうずくまる綱吉をとらえた。柔らかくほどけた目が真摯に見つめ返し男はこわばらせた頬の緊張を僅かずつに解いていく。(ああ、こうであったならば)有り得ない妄想に男の脳裏がじんと痺れた。少年期などないのだ。過去に仮定が無意味なことをよく知るからこそ止められない羨望の気持ち。愛されたいのだと喉が渇きぶるぶると体の芯が震えた。

「……さようならみたいな気持ちを紡ぐねツナは」

おいで。血塗れの指を伸ばせば綱吉が引き寄せられた。ちゅっと先に吸い付く唇。目を苦くしならせ二人微笑み合う。かなしいのとさびしいのとが混ざり合った感情が触れ合ったところから流れて綱吉は苦しいだろう。

「じーちゃんは楽しいよ。お前が愛しいから縛られるから落ち着くんだ。…もう、救おうとしない。許さなければこんなに楽なこともなかったんだね」
最高の娯楽は罪を許すことなのに。ひっそりと綱吉の耳元に唇を寄せ囁きながらべったり抱きついて。救おうとしなければ断罪は容易い。脳裏に浮かぶ己へ愛を囁く男の眼差しに目を瞑る。
どんなに愛されたところで愛するものから愛されなければ無意味だ。

(俺の慰めはお前を救わない。…俺の愛はツナにだけ与える)



狂った男がいた。狂わされた男がいた。たった一人の為に未来永劫に捕らわれることを良しとした幸福な男がいた。何も知らずに罪を重ねていた男がいた。たったひとつの言葉を待ち望み死に続ける男がいた。愛してる、愛してる、そう紡ぐ唇が誰の口付けを望むのかわかりながらも知らぬふりをする残酷を良しとした男は愛しいものを手にして幸せを知る。

(終)











 アトガキ
初ツナ企画の方の設定で★しりあすー!加筆修正しました。
2009/01/29(初出:2008/10/26)