福  音












「あのね、僕は君と殺し合いなんかしたことないんですよ?」

こそっと、ちいさな子に向けて腰をかがめて内緒ですよと囁く甘ったるい寛容さの込められた声で骸はゆっくりと穏やかに呟いた。さらりと藍色の髪がなびき、ちらちらと細い線の影が綱吉の執務机の上に静かに舞い散る。ねえ、綱吉くん。凪いだ水面のような瞳はゆうるりと細まり、やがて骸は満足そうに微笑んでいた、綱吉はわけもわからず子猫のようにきょとんとまるまった目で、椅子の背もたれに手をかけた男を見上げた。
殺し合い。舌の先で転がした言葉はひどく馴染み難い単語ではあるが、マフィアとなってからではその事柄はごく当たり前の日常としてしみつき、耳には最早何の苦もなく転がり込んでくるのだ。ころしあい。骸は敵だった。あの事を綱吉は優秀な家庭教師の言葉通りによく覚えていたのだ。殺しあったよ?あれ、と。綱吉は椅子の上で尻をもぞつかせながら、わき見して、…ふぅーっと遠いあの日を思い返してみる。…骸って超怖いなあと思った。が、本当の恐ろしさを知るのはまだまだ先だったという…複雑な一ページでもある今にして思えば。
恐ろしい男だった。
リング争奪戦の霧戦で肝を冷やした。だがそれもほんのひとかけらで。…知れば知るほどその度に恐ろしいことをちゃちゃーっとやってしまって。しかも下準備というか…、先手先手を考えすぎるというか…、えー?…綱吉としては骸は有り得なかった。有り得ない凝り性だ。

「……僕は君を殺そうとしたけれど、君はただ蹴散らしただけだ」

ね?そういって骸がまたゆったりと微笑んだ。あまやかで綺麗な瞳がつるりと輝き、その中には綱吉への慈しみが混ざっていた。あれ。綱吉はふっと骸を見上げた。骸は綱吉の頭をぽんぽんと撫で、いい子ですねと誉めるようにさっと、好きですよと囁いた。

「僕はね、マフィアが嫌いですけれど、君は大好きですよ。君はとても優しいしすぐ泣くし傷つくし、…よく笑った。可愛い子供でした。綺麗な少年でした。君は…、僕が憎悪すべきものじゃあない。だから…」

ばさばさ…ッ、と。窓辺のカーテンが突風に煽られ大きく羽ばたいた。執務机の上にあった書類は瞬く間に掃き散らかされ、真っ白な紙がはらはらと舞い部屋の隅まで優雅にすらりと追いやられてしまった。あとにはただポツンと。重厚な机の上に骸の大きな影が綱吉の影を覆い隠された姿が。骸はそっと静かに綱吉の固くなってしまった指からペンを抜き取ると、何かを痛むように一瞬だけぎゅっと目を瞑って苦しく息を吐いた。ああ…。綱吉は間近に迫った骸の顔を、何故か一生覚えているのだろうとぼんやり想いを馳せる。骸。ねえ、骸。
唇に触れたい。


「……優しくしてくれて、有難うございました。あの子達のことにも、傷ついてくれて、思って…、くれて。凪は君を知って甘えることを知りましたよ?…君は優しい、優しいから」

ちゅっと軽く唇が触れたそして…。鼻腔には骸の匂いがこもる。綱吉は目を閉じることを躊躇い、視線を伏せた。殺し合い。またさっきの骸が紡いだ単語がぶらりと脳裏に重く垂れ下がる。喉が動く。…骸が綱吉の唾液を飲み込んだ。くちゅっと粘着な音のあとに、離れた唇の間をつうっと糸がひいた。
すぐにぷつんと切れる。
ねえ、と。骸があたたかい吐息で囁いた、切ないメロディーを奏でる弦楽器のような声で。
…柔らかな傷ばかり背負った綱吉の髪を哀しく撫でた。


「マフィアになってください。…そうしないと、君の心が倒れてしまう。ねえ、青空なんて捨てましょう?闇と血と臓物を知って、僕らの敵になってくださいよボンゴレ」

(塞がりかけた傷口は薄紅でほんのり白く、闇の中で見つめれば光のように感じたけれども、それはきっととても悲しいことなのだろう。まっしろな傷。柔らかく、…ぱっくり開きそうで。)


骸の見つめる綱吉はいつだって悲しい。傷痕のようだ。
すべてを掻き消して仮面を被るようにまっさらな笑みを顔一面に華やかに彩らせて骸はにっこりと、…いきましょう、と。その一言を殊更丁寧に呟いた。


「殺してください。本当の君は僕が墓まで連れて行く」











(終)











 アトガキ
……よく、せっちゃんはこんなんなこれを貰っていったものだと!!!(それだけ飢えてたってことですね!!)爆
2009/04/01(初出:2008/07/07)