※『ひとでなしの恋』サンプル





幾つもの言葉を飲み込みながら立ち上がる、その度にわからなくなるのはほんとうに恐ろしいもの。
曖昧な視界と明瞭な命の瞬きに怯えているかのように震える喜びを胸に抱えてまたひとつ失う。














春だ。縁側に座り込んだ綱吉は顔を上向け、ぼんやりとした茶色の目を陽に透かして薄く金色に光らせた。
低い鼻先にぴたりと光がはりつく。
まるでなにかの清算を求めるような季節だと綱吉はやわらかくほんの少しの暗鬱をすくいあげて目を細めた。さわさわと風がそよぎ髪をゆらす、何かをすすぐように美しく降る光の中は未だ冬の名残がたっぷり染み込んでいて、その冷たさが酷く仰々しくて綱吉はへにゃりと口を拗ねたようにまげそうになる。春なのに冬みたいだ。
ひどく天邪鬼な気分に満たされた。暦の上では歴とした春だといわれたら猛然と反駁したくなるだろう。平和主義な綱吉にとって滅多にない好戦的な気分だ、しかし所詮は平和主義なのでそれは妄想だけにころころ留めることになるのだけれど。
でも春のものだなあと思ってみればその白い陽光の中に不思議な柔らかさがはらはらと散っていくので、何だか騙されやすいなあとしみじみしたり鼻先に温かな何かが掠った気になる。まったく春先は曖昧だ、寒いのは確か、まだ温かくなるのはこれからだ。うんざりした言葉をつらつら頭の中に何度も思い描くが綱吉の口元はうっすらと笑みをはいて目は細まっていく。
まだまだ冷たいよ、まだまだ冬のようだ。それが嬉しかった。でも、そう思っているのに、それでも白くふっくらと膨らんだ蕾の清らかな甘い匂いがするのも好きだった。
綱吉の中にはふたつの心があった。
ぴったりともたれかかった男の背中は大きくて、綱吉は其れを大変な苦痛を持って迎えているのだが、なんだか春なのか冬なのか解らない空気が応援しているのかなんなのか、そこから滲む熱がどうやら大変心地よくなってきているらしい。
なんだ、この世界は。
(なんだかなあ…、)
はらりと苦い溜息を零すとそれを掬い取ったみたいにくっついた熱にそれがすぐさま伝わって、彼はくくっと喉奥でわらった。
「奈々ちゃんがイタリアに行って寂しい?」
コツリと後ろ頭がぶつかる。きっとまったり目を瞑って眠った顔で彼は喋っている。でも口元が幸せそうに笑っていることが簡単に思い描けてしまい、ぐっと眉根を寄せて綱吉は突如沸き上ったひりつく不快感に耐えるように口を真一文字に引き締めた。嫌いだと猛然と思いながら知られるのは好ましかった。
「もう高校生だろう?」
背中に触れる熱はねじれ、ふっと少しの空白を生む。家康の両腕が綱吉の腹を囲み、ぴったりと肩に頬をすりつけ両足は綱吉を挟む。
(俺は、どうしたいんだ…?)
季節は春。美しく、すべてが息を吹き返すように始まる。
家康の髪がさわさわと綱吉の頬や耳をくすぐった。
綱吉の両手はだらりと開いた足の間に落ち、…ふっと僅かに動かすだけで腹の上にある白い手に触れさせることも出来る。触れたい?きっと男はそれを望む。嬉しがるだろう。でもそうはしていけない理由が綱吉をさっきから苛んでいたのだ。ひどくシンと痛む感情だ。
(……わかっている、正しい事はいつだって限りがある。そこに熱を含めれば途端に歪むことくらい、ちゃんと)
綱吉は冷たい空気の中で春をうまく感じ取れない。確かに春だと人々は言っても確実に空気は冬だ。冷たく春とは思えないものだ、しかし春なのだろうと温もりも見た。これが綱吉の望んだものか男の望むままに感じたことなのか解らないから酷く心が荒む。
すべては明るい。あんまりに酷く明る過ぎて何だかいろんなことが曖昧に翳ってしまうようだ。こんなにも穏やかなものを目に映しながら嵐の真ん中にいる。
優しく狂い始めようとする予感。別離の予感を孕みながら見ない振りで微笑んで寄り添う欺瞞。
きっと将来においてこの瞬間は、何度も振り返るだろう、それが恐る恐る悲しみながらか叩きつけるような思いで睨むのかは解らないが、どちらにしろ仕方ない。
幾たびも繰り返したって本質が変わらなければきっと同じ選択をする。何を知ったって、そうしたい。
(いや、俺はもう知ってるからそうしたいのか…うわあ)
家康はもう決めてしまっている。
綱吉だって決めてる、でも踏み出せないだけ。
もっと春のようだったら良かったのに。家康と約束した季節だ。優しく彩り豊かに咲き乱れる花の温かい季節。
強く、強く、さっきからひたすら強く念じ続けているがどうしても覚悟が足を引っ張って足元を揺らがせる。
世界は冷たい。知ってるよ。春とか関係ないことで。冬だと思いたいのだろうかと頭が掠める。世間はもう温かい春か?冬なのは自分だけ…?綱吉はひたすら揺らぐ。泳ぐように。ひたすら溺れそうに。
さあ、始めなければ。
この男の熱をくわえなければ。噛み千切る為に。
「…あいしてる、おれだけがおまえだけを」
怠惰に満ちた声はゆらゆら溢れる光に眩暈するようで、あの日の残響のようだ。家康の白い顎がのっしりと綱吉の細い肩に食い込みクスクスと笑う、そうしてするりと白い蛇のような滑らかな動きで頬擦りをする。
「春から始めようって、いったよね?だから俺はそうなるようにして、お前だってこの家に来たじゃあないか。一体なにがいや?どれが気に入らない?全部とかいったら怒るけど、ひとつだけだっていうんなら目を瞑ってくれ」
笑うしかない。溜息をごくりと飲み込み、泣きそうに歪んだ目を隠すようにくしゃっと笑っていると背後から何か勘付いたらしい振動が伝わる。両腕がぐるりと強く綱吉を抱き締めた。慰める気もさらさらない強請る吐息が首筋をくすぐる。
このひとは、本当に綱吉が今なにを決めかねているか知っているのだろうか?
でなければ、こんなに穏やかなのは辛い。
これは歪んだ結果だろうか?綱吉はやさしく、虚しく微笑むようにそっと両目を睫毛の影で翳らせる。
天には神様。なんて馬鹿馬鹿しい夢、檻の中だ。美しい青。憂鬱の色が空にはぶちまけられている!
光があまく滲んだ世界。光はあたたかい。
温もりはこれだけでしか無いみたいで酷く理不尽な目に合わされている、だから今腹の底をざわざわ複雑な怒りでじんわり熱く痛んだからまた、わらってしまう。
(なんだかなあ…、)
「熱に浮かされておいで、…肉欲から始めちゃったから思春期の子に苦しいことになるかな?でもね、この今の、まるで世界のすべてがここにあるみたいな感触は数年すれば何でもないことになるんだ。そういうものだよツナ」
世界はきっと放っておいてくれるから。
そう言って家康はずるりと綱吉の体を家の中に連れ込みあっさり押し倒した。
割り開く。家康の上機嫌に笑う口が囁く。
「足も開いて心も開いて…受け入れてくれればいいだけだ」
何も、心配はいらないという。そんなことは全く信用出来ないことを綱吉はとっくに知っている。沸き上るのは奇妙な苦しい笑い、眼をぱっちり見開き綱吉は家康を誠実に見つめた。二人の伸ばした腕は交差する。
この二人の関係を全うする為のものなんかお互いの両手に何一つとして染み付いてなんかいない。


それでも














以上サンプルでした!