※『oratorio』サンプル







ひとの想いが通じないなんてことはないよ、そう力強くいいきった言葉に二藍の着物を着た祖父はにこにことこの上なく甘ったるい笑顔をしてゆったりと辛辣にののしったのだ。
夜祭りの帰り道だった。
何故そのような展開になったのか綱吉はまったく覚えていないが、祖父の後ろに広がる景色が騒がしかったのを胸を突かれる思いでじわりと脳裏に呼び戻すことは出来るのだ…ゾッとするくらい美しい祖父の笑っていない目、その不吉な鮮やかさは硬くはじけ、空から垂れ下がってきた重たい雲の腹に地上で爆ぜる光がぽんぽん照っていたのがくるりと意味を翻し、まるで恐ろしい事の前触れのように為ったのだ…。高く掠れた笛の音、笑う声、ゆらゆら押し流されていくギラギラしたざわめきと興奮、それらに煽られ揉みくちゃにされて幼い胸の内にはほかほか明るく楽しい高揚を植え付けられていたのにあっさりと祖父の言葉と態度がすべてを冷たく摘み取ってしまうのだ。
整った顔立ちをして、綺麗な微笑みを零す癖に祖父はひとの怒りを込めた真剣な態度には不実な態度で返すひとだった。
興味深く蛇が舌舐めずりするようにうっそりとしなった目で祖父は見下しながら綱吉の拙くも精一杯に仕上げた真剣な鋭い目を見ることもせずに残酷な形でばっさりと裏切った。ばちんと頬を張られたような感触がして、…呆然と、綱吉は目をぱちぱちと瞬かせていた。
素っ気なく柔らかな声がいった、そんなことあるなんてことはないよ、と。くすりと笑って小さな頭に明るくささやいたのだ。
祖父はしゃがみこみ綱吉の目線まで頭の位置を下げる。
視線を近付けた二人を端から見ればきっと声も姿も幼子を優しくたしなめたもので、しかしながら綱吉にはその穏やかさの皮の中身が大変冷酷なまでに幼子にふるうべきではない暴力を孕んでいるのだと解ってしまう。祖父は、非道い。恐ろしいことを平然といって、清く正しい事を否定するから猛然と悔しくてくしゃりと顔を増々ゆがめてしまう。ぎゅっと拳を握る。この時ほどに祖父が嫌いだと思ったことはないのかもしれない。小さな膝小僧の中に顔を埋めてわんわん泣いて身の内に溜まる不快な塊を吐き出してしまいたい。酷く、ひどく切なかった、酷い、柔かな心の端を少し干乾びさせた。だって、綱吉は祖父が大好きで、けれども祖父は心まで曲がって返しているわけでもないのだ。
「でもね、それはとてもいいことだ。おまえの考えは間違いだと気付いただろう? だからおまえはもっとずっとたくさんいろいろとひとを見ることになる。自分の正しさを知るために、おまえはひとを疑う、様々なひとを食らうことになる。…その考え方は実にいい。おまえをただ無垢なままでいさせない。……うん、ひとは裏切る。それを知っておまえは信じるべきひとを得るのだろうなあ」
なでなでと掌の中にすっぽり収まってしまいそうな幼い頭を行儀よく撫でると祖父はやんわりと綱吉の頬に口付けてからふらりと立ち上がり…、ぐいっと綱吉の手を引いて歩き出す。帰ろう、と先程と打って変って優しさばかりに溢れ明るく無邪気に微笑んだのだ。
「……そう、じーちゃんを信じなくてもいい。お前がそう決めるのなら否はない」
どこまでも容赦なく。一切の緩みを見せることなどせず祖父は固く厳しく綱吉にだけは誠実に接した。着物も、履物も、帯も、ひとに対する笑みも言葉も緩やかに崩しているのだけれどこの幼い子供にだけはいつだって精一杯真剣に胸の内を明かした。
嘘をつかない、本当に祖父は芯からひとは裏切ると思っている、そうしてその上で彼は綱吉に決してひとを信じるなとも言わない。…好きに選べと。
すんっと綱吉は鼻を鳴らした。湿っていた。
ああ、そうか、とぼんやり浮かんだ言葉は徐々にしっかりとした輪郭を作って意味を伴っていくのだ。正しいことは清らかで強くてたったひとつだとおもう。…じわりと視界が揺れて決して零さないようにきゅっと瞼を綱吉は閉じる。
(じーちゃんは、ただしいことがきらいなんだ…)
夜の闇の中すすむ足音はひとつ、カラカラと軽い幼子の下駄の音だけが響いて祖父はやっぱり足音をさせない。まるで、長い幻の中にいる、…お互い、独りぼっちみたいだ。
このひとを信用してはならないことから始めるのかとぽつりと浮かんだ言葉に綱吉はぶるりと震えた。先程の怒りも即座に放り投げてしまうくらいざっと冷たく渇いた真っ暗な恐怖が腹から喉元まで競り上がってきて足元がぐらぐら覚束なくなりそうだ、ぅえっと吐き出してしまいたい、蹲ってしまいたい切実に!ケケケ、と何かが自分を小突いて奇怪に嗤ってくる感触までした…。そうっと目を開けて綱吉はすごく心細くなって祖父の顔を縋るように見上げた。
凛と前を向いて白百合のような横顔は綱吉を見ない。
けれども爪の伸びた手で器用にふくふくとしたちいさな手を傷つけないように大事にくるむのだこの祖父は…どうしようもなく、わっと泣き出して縋りつきたい気分になって、でもそうしたらまたとんでもない怖い事が起こりそうでそれに…。
祖父はきっと困る。しみじみ喜びながらも。グッと我慢して親指の腹でそっと、何かの決意のようにその温かな皮膚の上をおそるおそると、淑やかに撫でることだけにとどめる。
たくさん甘えさせてくれたがきっと、それは長い別離の備えのようでもあった。
いつだって祖父は綱吉にその備えを怠ることを許しはしない。…なかなか出来ていないと本人は悔やむように時折口元を苦く引き締めていたようだけれど。










以上サンプルでした!