「俺はね、こう見えてもとても機嫌が悪い」



美しい声であった。
ふわりと、闇色の中に浮かぶ銀月のように澄んだ調べであり刹那だけ性別の有無さえ疑わせた。
ただの一言。その一言がとても印象深い。カツリカツリと緩やかに進む足音をぴったりと地面につけた耳でもって 感じ取っていた少年は、その一言によって自分の生死さえ忘れさせられたのだ。生きるか死ぬか。 …死ぬだろうと埋め尽くされた世界を瞬く間にひらりと塗り返される、なんて非道。
何の音も聞こえなかった筈だったというのに。其の声は少年の世界をいとも容易く揺るがして…。 ただ彼が不機嫌だったからただそれだけで。
(…支配するように、破壊するのか。)
カツリ。
靴音は冷たく響く。なにかを孕み膨れて少年の心を押し潰そうとする何かの前触れのように鋭く。 死んでもいいだろうと諦めの境地であった心臓など突然、逆上し金切り声で叫ぶ女のように激しく鼓動を響かせた。 煩い。…痛い。 冷たい躯の端からじくじくとした痛みがぶり返してくる。ああ、地獄をもう一度。ひどい、なんてひどい。指先が屈辱に濡れ 震える、少年は引き攣れ渇いた喉から呻き声をあげて嘆いた。殺してやりたい程憎かった。どうして生きろという、お前は。ギリリと渾身の力を込めて少年は目の前の破壊者を睨んだ。

冷たい路地裏で少年は野良猫の最後のプライドのように人知れず死んでしまいたかった。

(殺してやる……ッ!!!!)

にこりと、慈愛溢れる優しい瞳で青年はうっとりと微笑んだ。 ふわりと白い花が咲き誇るような清らかさが染みとおったやわらかな笑顔、 まったくの好意と善意に満ち溢れた姿でもって目の前の痩せた犬かと一瞬見違えた少年を見下ろした。
カツリと冷たい路地裏に靴音が冴え冴えと響く。 はらはらと黒い外套の端は歩みと共に静かに揺れまるで男がぬるりと闇から分離したような錯覚を起こさせた。 だが、さらりと真っ白な髪がやわらかく白い光りを振り撒くのだ。さらさらと細く流れ、 ニコリとした目を時折覆い隠しながら高潔な匂いで夜を舞った。 男の口許に清らか過ぎる笑み。…また、髪がしなるように。今夜は風が強いのだろうか、 彼の背後で長い髪が広がり其れはまるで銀粉を散らすかのような輝きを放ちひどく目をやいた。

「おやおや、君はもう死んでいるのかい?」

また美しい声。……不機嫌だと花のように微笑う男はいった。 こうして間近にきた彼を見ても少年にはその欠片が見つからなかった。 ただ、清らか過ぎる笑みは冷たいものだと知るだけ。黄金を溶かし込んだような瞳は一点の穢れも無く冷たく優しい。 清らか過ぎるということは全てを排し、全ての生ぬるさを忌避するということか。少年はケホリと咳を吐いた。 身体の奥が急速に寒くなっていく。…近いのだ。目の前は霞む。ぐらぐらと揺れる世界で男が真っ直ぐに立っている。 纏う空気も緩やかで何の棘もない。花の匂いしかない。ただ、ただ、本当に彼は優しく微笑んでいるのだ。甘い匂いのように 心の底から優しさを滲み出させている。その奇妙さがいやに可笑しい。 これで不機嫌だというのなら、あっさりと虚言を吐いているのかまたは真に迫った演技をしていることとなる。 虚言か虚像か。両方か。憐れまないでくれるならいいと思う。

「女の子にふられちゃってね、その上目の前に娼婦の子供が死にそうに転がってる。 これで不機嫌にならないなんて嘘だよ。まったくついていない…。 最近の若者はゴミをきちんとゴミ箱に捨てないのか?」

ねえ。鈴を転がすような笑み含む声が、ゴロリと少年の頭を踏み転がす音の上に覆いかぶさった。 生きているの?死んでいるか? 仰向けにさせた少年に優しく微笑みながら青年は淡々と尋ねる。なんて奇妙な事態。
…あえぐように、ひくつく舌をわずかに唇から覗かせた少年を見て男はまた丁寧にわらう。

「生きたいのかなんてまで聞こうとは思わなかったけれど…。気まぐれ、かな?」

生きたいかい?と男はきいた。ニコリと無邪気な笑みで。本当に嬉しそうに、慈愛の色を深くしながら微笑み、 スッと僅かに額を踏む足に力を込めた。表情は絶えず麗らかな春の日差し。

「生きたいなら俺の靴にキスするといい。そしたら俺は必ずお前を生かすし、お前が蹲るそこに誇りをもって立てる ようにしてやるさ。……さあ、どうする?俺は人間は大好きだが、屑に用はない」
「…………」

少年の瞳は虚ろだ。急速に持ち上がったこの事態がまったく飲み込めないことを含めずとも長く虚ろであるが。 しかし生きることに執着はあるかと問われれば無いと答えていたのが自分である筈なのに、 先程からぐいぐいと胸のあたりがひっぱられるから更に混乱する。 生きたいか。問われている事に対しての返答はすでにもっているはずなのに其れを答えようとすると何処かが 立ちゆかない気分がガッと這い上がってもくる。……こたえなければ。応えようとしている。

途端。
よろり…。不自然に大きくまるい頭が動く。本当に、かすかにだが。 ちいさなまるくとがった舌先がわずかに伸びあがって、…ぶるぶると、重しを吊るされ枷を嵌められたように手は 震えながら渾身の力で青年の靴の元へと這い上がるようにのびていく。触れようとしている。 息があがっている。ゼエゼエという息と共にヒュウヒュウという喘息患者のような空風の声が混じる。 あんぐりと乾涸びた唇は開かれる。血の通いが少ない白く真っ黒な空洞。男はじっと眺めた。 少年の枝のような指が彼の黒革の靴にざわりと絡み、そっと。

「……そうか」

生きたいと。子供はいっている。 その声が青年には聞こえていた。
生きたいと。
生きたいのだと。

「へえ…」

聖人の笑みが深まる。いっそ女性的といってもいいほどにまろやかな線の笑顔。 艶やかな色でついっと口元がつりあがった。瞳の色は深まり浅い色のはずのそれが瞬時にギラリと染まった。

ちっ、と小さく聞こえた声。言霊。子供は男の靴を引き寄せた、男は踏む足に力を込めていなかったから少年の望むようにずるりと位置はずらされて、そして。
靴底に唾を吐き捨てられた。
ただ、それだけの為に懸命に力の消えうせた腕を引き上げ指に力を込めたか。からからの喉から唾を絞ったのか。 プライドの為に残りの命を削り無いものを作り出したというわけだ。

瞬間、ガッと青年は少年の顔を踏みつけた。
(ぐちゃりとまるで果実を潰したような感触。)

「…ッ!!!」
「素晴らしいなあ…、お前」

思わず男はくっくっくと笑い始めた。身体を折り曲げるように盛大に少年を嗤って賛辞した。
それこそが惨劇だ!これこそ終りの始まり、喜劇と陵辱のはじまりだとぐりぐりと踏みつけながら高らかに哂った。 冷たく濡れた路地裏に不気味な響きでキンと響き渡っていく。

「実にお前は正しい!!正しい判断だぞ小僧!!お前はこの瞬間をきっと呪うだろうが俺は誇れと 笑おう!!…さあ。さあさあ、終わりの終わりをはじめ手早く永遠の喜劇を演じようじゃあないか小僧よ!!」

そして男はぐんと腕を伸ばして白く枯れた枝のような少年の身体を軽々と掴み上げ、 更に泥と血と鼻血で汚れた顔の、薄い瞼に閉ざされた瞳とピタリと目を合わせた。 絶望など何処にもない。あるのは悲劇と甘言と闇だけだ。優しい響きでうたいあげる。
……その瞳はまさしく猛禽のそれ。目を閉じた少年はまだ少し幸福だった。







「お前は飼い殺し決定だ。……磨いて磨いて、磨き抜いてやるさ。 そして今日逃した女の代わりに俺に抱かれてコウフクの内で死ね」














2007/11/4