例えばこのスプーン一杯でとか






誰も優しくしないでくれ、そう叫んだ気がした。ビクンと痙攣ひとつをあげて古泉はハッと目を覚ます。 まるで長い長い眠りから突如放り出されたような、現実とのズレが奇妙な質量をもって身体にのしかかっているようだ…、 心臓の高揚、心許ない心地がぐるっと古泉の精神を囲んで嬲った。
ああ。
熱を出したのだ。
一言で言ってしまえそれだけのことなのに一生をかけてもとてもじゃないが拭いきれない大失態を犯した気分になるのは どういう不思議なのか。古泉はひっそりと眉間に皺を寄せて弱々しく苦笑した。 そんな事はとても簡単なことだ。彼がいるのだこの部屋に…。(思い出した。) 最悪、そう呟きそうになって古泉は開きかけた口をぴたりと閉じる。 健康状態がもっと良好であればきっと、迷わず哄笑しているのかもしれない状況。 彼が、彼が…、彼がいる。なんだろうかこの現実。この許されない事実。彼はキッチンに立って何かを作っていた。 呆れる。

(貴方は甘いから…)

くつりと笑みを刻んでしまう。
だが実際はゴホゴホと咽るような堰が飛び出したが。喉奥になにか凝り固まったものがあるように苦しい…。 身体全体で息をしているように錯覚してしまう、自分のゼエゼエとした息遣いが煩わしい。 ぎゅっと握り込んでいたらしい掌の中は汗に塗れていた。
ゴホゴホとまた咳が、すると腹筋が悲鳴をあげる。そうか、 咳とは腹筋を使うのかとしみじみした。ああほんとうに、熱いくせに寒い。 関節がギシギシという、油がきれたような重い身体。熱か…。疲労がたまっていたのだと彼は言った。 ええ、そうでしょうねと答えたような記憶がノイズ交じりに思い出された。 (…ああ、そういえば倒れたのだった。)(だから、だからそれだからあなたは 見捨てることが出来なかったのです。)目を閉じれば、驚愕で目を見開いた彼の顔、それが困惑したようにぐしゃりと 心配顔になって…。ねえ、弱っているものに手を差し伸べるのは優しさじゃあないんですと抱き起こされた時に 告げれば良かったのだと古泉はひっそりと後悔する。…そうすれば、彼は。(あなたは。) その後悔の甘さに舌打ちしながら、 ゆっくりと再び目を開いた。長い前髪がさらりと流れた。ゆび。てのひらか。

「起きたか古泉」

目の前に広がるのは部屋の真っ白な天井。ではなく、彼であった。額がやや圧迫されていると感じるのは冷たい手が 押し付けられているからだ。彼はやっぱり高いなといってそっと外していった。その眉間に寄った皺が深くて、手を伸ばして それを引き伸ばしてあげたいなあと虚ろに古泉は思う。熱い吐息が口からまた漏れた。

「笑ってる場合じゃねえ」

わらってなんか…、そう反論しようとしても口から耳障りな音しか漏れなかった。わらってないんですってばと 反論出来ないなんて悔しいなあとせめて目に力を込めて意志を伝えようと試みる。無理でしょうねえ。 超能力はあの閉鎖空間でしか現れない。…と、古泉はつらつらと脳内で語っている内に彼は 小さなテーブルをベッドの横にもってきて、そこに白粥とスポーツドリンク、そして薬の箱を置いた。 それらは学校から古泉を引き摺って帰る途中のコンビニで買っていった物たちで…。 そして彼の気遣いによってか其の粥はきちんと暖められ食器に盛られているのだ。別にいいのにと、どうしてこの人はこんな 心の砕き方をするのかと古泉は首を傾げたくなる。同時にじんわりと胸の奥底に灯るものがあるのがわかった、 けれども其れを押さえつけるように、咳のような溜息のような吐息を漏らした。

「薬飲む前に何か腹にいれておかないと駄目だろうということは常識的だ。だから喰え、古泉」
「……………」

はっきりいって食欲はない。だからといって食べたら吐くという感じでもない。たべる…。 古泉はのろのろと上体を起こした。食べるべきだと思う。薬も飲まなければならない。けれども食べるということが まるで現実感を伴わず、そしてそれよりも優先すべき事があるような、または食べなくてもいいようなという、 もやもやとした気持ちが彼のぶっきらぼうな、押し殺すような心配然とした顔を見る度にぐっさり胸の奥でつかえてしまう。 いっそ食べたら死ぬという感覚であればいいのに、首筋を汗が 滑り落ちていくのを感じながら墓穴から這いずり出る亡者とはこんな具合だろうかなどと全く益体もない思考が頭に 根付く。何てままならない身体。そして心。 熱だ。熱がある…。ぐらぐらと揺れる視界の中でもやっぱり鮮やかな存在感でもって彼は 古泉の意識全部を惹き付け剥ぎ取るように奪っていく。彼は全然そんなつもりはないから尚更それは。酷。 ひどいなあ、ひどいですよねえ。危なっかしい動きの熱にまみれた古泉の身体へとまた手を差し伸べた甘ったるい彼に、 古泉は泣きそうになる。まったく非道い。その手に導かれるままに身を寄せた。支える体。…ああ、そうか。 妙な合点がストンと腹の底へと落ちてくる。嫌そうに彼がスプーンで粥をすくった。

(…そうか、僕は今が幸せなんですかぁ)

だからもうこの瞬間に死んだって構わないと。
身勝手な願い。醜悪である筈なのに今まで感じたこともない程にとんでもなくキレイな気持ちだ。
何もいりません。
古泉は震える言葉を押し込んで、命じられるままに雛のように口を開いた。


(キョンくんに優しく大事にされた途端に消える呪いがあったらいいのに…)









2007/08/19