それは不満です






しゅるりと首に蜘蛛の糸が柔らかく絡んだような気がした。(なんてはかないいと。) …ひかれる、そんな錯覚に導かれて古泉は首をゆっくりと巡らせてしまっていた。 窓の外には真っ青な大空が無限の如くに広がる。雲ひとつなく、不安ひとつ浮かべない模範的な平和な色をした空。 何の気まぐれか、…または何の予感なのだろうか。ぴたりと止まった足。移動教室の途中であったのに、 そして残り時間は二分。 クラスメイトは古泉を無視してすいっと追い越していった。……あと一分。

「それは妹に噛まれた痕だ」





意外なことながら彼の肌はとても滑らかで初めて触れた時など如何しようととても戸惑った覚えがある。 上質だ。ピンとしたハリがあってそして瑞々しくて…、ああこれが健康的な肌なのか未発達さのみせる 清らかさなのかとしみじみと感心した。掌にすいつくようだ。滑らかで、…あたたかくて、優しいしなやかさ。
男の肌。……だから固くて、触っても麗しい感触があるなんて思わなかったのだ。 肌の下の筋肉の新鮮さが微笑ましくて清々しくて…、奇妙な焦燥を抱かせる。
泣きたくなった。
(……だいじにしたい。)
陽に晒されることのない部分の肌はしろく柔らかな印象で古泉の目を焼いた。

「すき、」

ふわりと浮き出た肋骨。柔軟なアンバランスさ。しなやかな、…しなやかな、触れた指先から火が灯っていく。 ぽつり、ぽつり。大事にしたいと思う。細い腕。なんて薄っぺらな胸だ。 何で…。あまりにも自分たちは未熟な命なのだと思い知らされる。

「好きなんです…」

彼は何の力もない。古泉は限定されたイキモノ(生き方)で限られた能力で。くやしい。 ただ、ただ、…彼は、かれは…。大事にしたいと苦く祈るような声が古泉の中身を支配する。 まもりたいと。ずっと、ずっとずっとただ傍に居て欲しい。


『……お前はよく泣くなあ』

ぺたりと頬に触れた掌に唇を寄せて古泉は想う、叶わぬならせめて許される限りこの肌に愛しさを刻もうと。





案の定、授業には間に合わなかった。けれども優秀な成績を修め、教師のウケもいい古泉は 何の咎めもなくまたクラスメイトから不満の声があがることもなく自分の席に着いた。
キンと硬質な音が鳴り響く。 燦燦と太陽の光が注がれたグラウンドではキョンのクラスが野球に勤しんでいた。推測だが。 古泉の席からは空とざわざわとした生い茂った樹木しか眺めることが出来ないし、 この教室は校舎の奥の方にあって中庭のがよく見える。グランドは遠い。 ただ、先程の映像から判断するしかない。 遠目でもわかった、声さえ大勢の中から取り出してしまった、彼の存在。 …またカキンと打音が響く。きっと彼はだらだらとしてやる気などこれっぽっちもない顔をして 日陰に居るのだろう。出番の時だけ、その骨ばった、しなやかな身体を動かすのだろうと…。 そっと目を瞑るだけでわかる。くすりと思わず口許に笑みを刷いてしまう。 古泉は自分が相当いかれているととっくに自覚している。
教師の声、シンとした教室、カツカツと響くチョークの音。 これが学校生活における古泉の日常に響く音である筈なのに、今胸の中で心地良く響くのはキンという 時折響く音だ。春風のように通り過ぎる。開いた窓の外ではざわざわと青く萌える新緑。煌びやかな太陽。 その下で彼が居る。
生きて十五年と少し。彼と出会って数ヶ月。 大好きだと想う、日増しに強くなる願い。涙。

(早く放課後になりませんかねえ…)

脳裏に浮かび上がるのは首筋に痕をほんの少しちょこんと付けただけで烈火の如く怒った彼の顔。変態といった。 ひどい…。でも嬉しいと思った、古泉は困ったように眉を寄せながらも口許に優しい笑みを記す。
甘いなあ。
こっそりと脇腹につけた噛み痕にきっと彼は怒るけれど、絶対に許してくれる筈だから。 あれは所有の証。愛されていると試したことを彼は知らない振りして黙って頷くみたいな人だ。







(………それにしても。あの人のことだから気付いたのはあの時の筈なのに、よくもまあ平然と即誤魔化せたものですね)








2007/08/26